1年と少し

「タワシ君に好かれてますよ、課長。タワシ君があんな行動に出ることは殆ど無いですから」

「そうか?」

「はい。それに彼の人を見る目はとても鋭いですよ。タワシ君に認められるって言うことはとても貴重なことですよ」デイ子は言った。

その映像から現実に戻った瞬間の私は電車の進行方向左側のドアの方を向いて立っていた。ドアのガラスに私と左後方に座る顔の脂ぎった中年が私の後ろの上方を見ている。心臓が高鳴っていた。腹がたったのでガラスを媒体として男を凝視した。目が合った。目が合うとすぐに私は視線の方向を変え、彼を見ないように装い、視界の端で彼の動きに注意していた。また、先の映像に身をおいている間に私は何をしていたのかということが分からなくなりとても不安になった。目が覚めると交差点の真ん中に敷いてある布団の上であった、という程のものではないが、数分前と現在が分断されていて繋がりがわからない、正確に言うと繋がりを実感できずにいた。記憶を振り返ってみてもその不安は取り除くことができなかった。仕方がないのでその不安はそのままに、再び先から頭の何処かにあった別の不安、中年男の挙動に対する不安がやってきた。ドアが開く前に赤いかさを持ったベージュの女がドアの向こうのプラットフォームにいることを認めた刹那私は反対側のドアの方へ移動した。

数駅を越した。

電車が急にスピードを緩めた為に私の横に立っていた本を読んでいたサラリーマンがよろけて私に接近した。私は胸のあたりに空気を投げつけられた感覚の後、体の内奥が熱くなりそして体の上半身の表面から汗が噴き出るのがわかった。

サラリーマンは私に当たっただろうか?

また大きな不安が私の中に生じてきてしまった。

先の時間の流れの断裂、中年男の挙動、の不安が相対的にどうでもいいことのように思われてきた。そして今私の支配しているのはサラリーマンが私に当たってはいないであろう事実に実感が持てないことからくる大きな不安であった。

先の不安は消えてなくなってしまったのだろうか。あるいは毎日の不安の集積は私の中に存在し続けるのだろうか。わからない。

理性とは別の部分で私は反応している気がした。理性では分かっているような気がする。確信は持てないがそんな気がする。しかしその理性の判断を私は信頼できずにいる。

こんな風になって1年以上が経った。

いつまで続くかわからない。死ぬまで続くのか、いつかは無くなるのか、質が変わっていくのか。

「これは病気なのか?ならば病気の定義を教えてくれよ。実生活が送れなくなってしまったらそれは病気なのか。まず病気の定義をしてくれ。嘘ばかりついて患者からお金を巻き上げやがって。精神科などに行ったって仮にこの症状が病気だとしてこの病気が治るはずはないんだから。そもそも病気だと私は認めていないがな。あれは多くの人間を制御、統制するための手段のひとつとも言える。そして精神科の言うことは製薬会社が経済的利潤を追求するための嘘なんだ」

風呂から出たハダカの私はそう声に出して気持よく弁じた。声にならない言葉を発する何者かに対して答えている風でもあり、幾人かの聴衆の前で演説している風でもあった。そして私は、精神科は私の今のような行動を見たら病気だと決めるだろう、と思った。それは幻聴ですよ、そう診断するアホ面が目に浮かんだ。

「違うんだよ、君。私ははじめからこうなんだから。ずっと前からこうなんだから。統合失調症ではないよ。おそらく医学部の教科書に記述されていることがらを盲目的に受け入れお勉強してきたお利口さんにはわからないだろう。統合失調症など存在しない。ビューティフル・マインドかい?あれはいい映画だった。すごく泣けたよ。それとは別にしてハリウッド映画で統合失調症をテーマにして映画を作った意味を考えてみてくれ。病気って何なのだ。私にはわからない。精神科に行ったからって治るのかい?じゃあ治るってどういうことなのか説明してくれよ。脳の働きを抑えて感覚を鈍くして不安を取り除かれた状態にするのが治るっていう意味かい?だとしたら薬を飲まなくなったら元通りじゃないか。それに一度脳の複雑な機構に作用する薬を服用したらもとには戻らないかもしれない。脳は不可逆な臓器というじゃないか。薬を服用したらはじめの症状とはまた質を変えた新たな症状が生じて手に負えなくなり、人間の抜け殻ができるのではないのか。ただ今私は毎日が辛い。それは認めよう。だからといって辛さの解消を精神科に求めるのは間違った行為だよ。それは逃げ、だ。そして逃げたら一生逃げ続けなくてはならなくて、逃げている間にバターになってしまうんだから。そしてバターになった自分に気付かずにバターがただそこにあるだけ、ということになるのかもしれないよ」

とはじめの勢いは失せ、終いには低いぼそぼそとした声が部屋の中に変な響き方をして耳に入った。

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